20090609

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むかしばなし1



豚肉は全力で息を殺した。


途中まで開けたドアから出た左半身に細心の注意と最大限の敏捷さを伴わせて、
もう一度トイレの内に仕舞い込んだ。だがそれは論理的思考による結果というよりは
むしろ反射に近い行動だった。


全身の立毛筋が一斉に収縮していた。
皮膚は乾燥し、呼吸が乱れ、換気扇の音がやけに大きく聞こえた。
冷静さを取り戻すために、左手首の動脈の上に右手の親指を乗せ自らの脈拍数を数えた。

その単調な血液の響きが彼が今精一杯生きている証だった。豚肉はふっと
涙が出そうになったのを堪えながらトイレにもう一度腰を下ろし、精神と思考を
もう一度あるべき場所に戻すために頭の中でつぶやいた。


「はて、どうしたものか。飯もろくに食わず、腹は減っても、うんちは出るもんなぁ。」


どれくらいが経ったのか。
すでに握り締めていたトイレットペーパーはしわくちゃになっていた。ケツを拭いた。
鳴り続けたインターホンは既に止んでいたが、それが逆に周囲の空気を
また一段階重くしているように豚肉には感じられた。

換気口を通じてトラックの騒音が聞こえた。彼はもう一度トイレのドアを開けた。
隙間から漏れたトイレの明かりが廊下に一本の白い線を作っていた。
その白い線の先には玄関のドアがいつものようにそこにあった。人影はすでに消えていた。

豚肉はドアの覗き穴から外を見たがそこには誰もいなかったし、ドアを開けて
周囲を見渡してみてもやはり人の気配すらまるでなかった。同時に一枚の紙が
ひらひらと玄関先に落ちた。それは佐川急便の不在通知表だった。

豚肉様宛、とボールペンで隅に殴り書きしてあったが、差出人の住所は書いていなかった。
差出人名の欄に小さく「コロッケ」という文字だけが目立った。



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